◎2005/ 10/ 5 改定

平 清盛公と音戸の瀬戸

音戸の瀬戸

 急流と渦潮で名高い音戸の瀬戸に架かる真紅のアーチ式の大橋が、山の緑、海と空の青さに浮かぶ風光明媚なこの地の本土側の丘に、「吉川英治文学碑」が瀬戸を見下すように建てられている。

 吉川氏が「新平家物語」の史跡取材のため音戸の瀬戸を訪れ、今から800年余り前、全盛を誇り、この瀬戸を切り開いたという平清盛公を偲び対岸の清盛塚に向かって、清盛クン、どおかね、「君よ、今昔の感如何」と言われたのを記念して碑が建立された。

 “船頭いや音戸の瀬戸で、一丈五尺の櫓がしわる“の名句で歌われ親しまれている広島県呉市音戸町「音戸の瀬戸」は、幅が狭く、そのため潮の流れが早く、岩礁があり、ゴーゴーと渦巻き、瀬戸内海交通の難所の一つである。

「音戸の瀬戸」は、その昔、平清盛公が開削したと言い伝えられている。
                           昭和初期の音戸の瀬戸

 平正盛(清盛も祖父)忠盛(父)が瀬戸内海の海賊追討などをして、平氏は、瀬戸内海に深い関係をもつようになり、殊に1146年(久安3年)清盛公、安芸守に任ぜられ、以後十年間国司として、安芸の国との関係を持ち続ける。 これを機会として、安芸国宮島に鎮座する厳島神社への信仰がはじまる。

 厳島神社は、祖父以来関係が深い瀬戸内海の霊島である。 安芸寺時代の清盛は、軍事力、財政力は有しつつも、中央政界で伸びていなかった。 そこで、清盛公が霊験あらたかな厳島神社に今後の栄達、繁栄を祈願するようになったと思われる。

 かくて、清盛公は熱心に厳島神社を崇拝し、華麗なる社殿を建立し平家の氏神として敬い数回参詣している。 清盛公の音戸の瀬戸開削と厳島詣との関係の一考を要す。
 音戸の瀬戸開削のことを、厳島神社に残る「史徴墨宝考証」のなかに「清盛音戸をして芸海の航路を便にし厳島詣に託して促す」と記している。

「日招き」伝説

 1164年(長寛ニ)清盛公は音戸の瀬戸開削工事に着手(壮年説、安芸守説もあり)し、竣工まで十ヶ月を要して、さすがの難工事も完成の日戸なった翌、永久元年七月十六日引き潮を見はからって作業が行なわれることになった。

 この時を期して是が非でも完成させねがならず、清盛公の激励、役人、人夫の血のにじむような努力が続けられたが、すでに夕日は西の空に傾き、長い夏の太陽の光りも、はや、足もとも暗くなりはじめた。

 今ひと時の陽があればと、さすがに権勢を誇る清盛公もいらだち、遂に立ち上がり、急ぎ日迎山の岩頭に立ち、今や西に沈まんとする真赤な太陽に向い、右手に金扇をかざし、日輪をさし招き「返せ、戻せ」とさけんだ。 すると不思議なことに日輪はまい戻った。 「それ、陽はあるぞ。」と必死の努力により、ついに音戸の瀬戸の開削工事は見事に成就した。

 ときに清盛公、四十ハ歳であったと伝えられている。

 この伝説にもとづき、昭和四十ニ年瀬戸内開削八百年を記念して、当時の英姿をゆかりの地、本土側の日迎山高烏山銅像を建立してその偉徳を偲ぶ。

清盛                           大正時代の清盛塚

 音戸の瀬戸開削の恩人清盛公は、当時、このような難工事には人柱をたてて工事の完成を祈願していたが、人命を尊び、人柱の擬製に代えて一切経の経文一字一石、心をこめて書いた経石を沈めて工事を完成させた。

 清盛公の死後、1184年(元暦元)村民は、この地に清盛公の功績をたたえ、塚として石塔(宝篋印塔)を建てた。 これが、「清盛塚」である。

 塚の中央に高さ2mの古色蒼然たる宝篋印塔が一基あり、その側に枝ぶりも見事な「清盛松」がその影を美しく瀬戸の渦潮にうつしている。

 「芸藩通志」に『相伝ふ(略)の口に石をたたみて、上に石塔を建つ世に相国(清盛)の塚といふ』とあり。

念仏踊

 清盛公の死後、村民たちは瀬戸開削の大事業を仰ぎ、その功徳を慕い、日毎、夕日に映える(日招岩)を眺めては、しばしば哀愁にひたっていた。
 その頃、たそがれ時になると「日招岩」の辺から、数羽の白鷺が翔び来てば、ゴーゴーと渦巻く瀬戸にあわれな鳴声を流していた。 村人はこの姿を見ればみるほど、いたたましく哀傷の念にうたれていた。
 ある日、お寺の僧がその様子を見て「日蓮が母を追慕した古事にしたがって供養せよ」と論した。
 このことについて、「芸藩通志」の中の遊長門島記に『七月二十七日の孟蘭盆の節、楷子を舟のようにして、瀬戸掘切の時、人夫を激励のために打ち出した太鼓の音頭拍子に合わせて念仏を唱え、月明かり夜を踊あかすようになった』と記され、これが「念仏踊」である。

清盛祭

 「念仏踊」からはじまった「清盛祭」はいつの頃か、「大名行列」を行うようになった。 藩で不用となった参勤交代の道具を払い下げてもらい、「百万石の格式」を誇る大名行列となった。
 旧暦三月三日(一年中で潮が最も干く)瀬戸掘切のために際、人夫激励のために打ちならしたという太鼓を合図に「大名行列」がつづく。 勇壮な手やり投げの「道中奴」、お籠や馬も登場す。 見事な芸を見せる「草鞋とり」などの行列が延々五百米、五百数十人にのぼり、華麗な行列絵巻が繰り広げられた。
 この行列には、清盛公瀬戸開削にまつわる出し物が特色で、この際の模擬として、歌に合わせて土砂を掘ったり運ぶ動作をして道中を練り歩く「瀬掘り」また、清盛公、瀬戸検聞の折御座舟(おふね)に乗った時のことを模擬した「おふね」を造り、ゆっくりとした調子で打つ太鼓の音に合わせて、独特の節で古老が美声で歌う。
 この祭典は明治中頃まで大体毎年執行されたが多大な経費を要するので隔年になったり四年に一度になるなどして、戦時中は中断され戦後昭和二十七に復活し、その後三回行われた。
 最後に思うことは瀬戸開削を指揮したのは清盛公であるが、開削の功は、これに従事した名もない多くの人々の尊い血と汗の結晶であったことを忘れてはならない。
 なお、瀬戸開削の伝説や文献は書かれているが、平氏が敗者の故か敗者の故か歴史事実となっていないのが惜しまれる。

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